No Me Arrepiento De Este Amor.

俺達は何故生きている?痛みに耐えるだけのために?

注意欠如・多動性・衝動性を抱えて生まれ社会で生きてきたこと。

未就学児の頃から、とにかく走り回る探索行動が豊かな子であり、

学校教育を受け始めると、その年に誕生したJリーグの影響から、サッカーにのめり込んだが、チームに所属した訳でもなく、ボールを足で扱うようなことは上手くない。それどころか、キャラなのだろうか。いつのまに、50m走は得意だったにも関わらず、クラスの序列、今でいう「スクールカースト」に準ずるものがあるとすれば、その中では、クラスで下に居た。

某有名補習塾にも通い、学校よりも先取りした学習を行い、数学とりわけ掛け算の得意さとスピードは学年トップ。にもかかわらず、クラスメイトや教師の印象は悪いものだったと思う。サッカーは一向に上手くいかなかったが、何故かシュートを止めるのだけは皆から褒められた。ダイビングやローリングが何故か全く怖くなく、思い切ってやれたから、そこだけは、畏敬の念を抱かれた。にしても、おそらく、嫌われていたと言い切って差し支えない。

転勤族の息子だったため、4年に進級するタイミングで転校した。地方に東京から来たこと、いきなり学級委員をやったことなどから、目立ってしまった。何故かクラスメイトや同学年生徒からはバカにされていた。
その頃、両親はその地での進学に危機感を持ち、所謂中学受験を前提とした塾に行き始めた。週3塾、その内1回は、練習から持参したおにぎりを食べ、塾に行った。サッカーは上達したものの、進学塾の内容にはついていけなかった。ついていけないから嫌だった、というより、誰も話のできる人が1年以上いなかったことが苦しかった。何故自分だけ塾通いをしているのか、理由が分からなかった。

3度目の転校は上手くいった。そして5,6年を過ごしたこの2年間で、フットボールとゴールキーピングという役割が完全にアイデンティティとなった。これ以外のことで仕事なんてしたくないという確固たる思いが出来上がり、自力で申し込みや支払などをして名門ジュニアユースクラブのセレクションを親の保護なく3クラブ単独で受けに行った。プレースキックの飛距離の無い身長149cmGKだった僕は、その世界では必要とされなかったが。

中学進学。GKとしての能力を否定されたようでショックな気持ちを小6の秋冬から抱え続けていた。父親からは、部活選択の場面で「サッカー禁止令」が出た。今でも理解できないのだけれども。しかし、それを押し退けサッカー部へ。でも、そんな部活は上下関係と暴力に溢れており、教育者や顧問が選手を見る時間はなかった。これで、早期に形成されたアイデンティティが簡単に壊された。サッカーが3年間
満足にできず、悔しく虚しかった。しかし、なんとか、無理やり進学塾に入塾させられ、なんとか高校は進学校に入学できたが、この頃から勉強に対してモチベーションを保てなかった。

そして、高校時代。最も苦しかった。一学年600人規模のマンモス私校。保守的な伝統感があり、行きすぎた清廉潔白と過重な勉強、テストや模試の結果ばかり要求された。

部活動でサッカーを続けたが、この頃は中学で全く実力を伸ばすような練習ができなかったので、プロは諦めたいた。虚しかった。なのに勉強だけやれという保護者や教師陣の圧力はとても苦しかった。そんなとき、途中退部したサッカー部員の窃盗事件が起き、その実行犯・人が退学させられた。そいつらに僕は殆ど興味も関心もなかったが、退学させるということが実行されていることに対して、疑問を感じた。自分の学校の生徒がそのような行為をしてしまったのに、辞めさせて教育する義務を負わないことが納得いかなかった。3年で300万も取る癖に、何が進学校だ、何が偏差値64だ、と強い疑問を抱いた。
この頃から、大人は信じてはいけないのだと悟った。登校ストライキ(不登校と言われるだろうが僕にはストライキのがしっくり来る)を始めたが校長の下僕の若手教員と学年主任に説得や圧迫をされ、母が、ショックを犯し突然退行したため、仕方なく、父に懇願されて、しかたなく、学校に戻った。この学校に「卒業させてやったんだぞ」というような恩を売ってしまったようで、今でも後悔の念が疼くことがある。そしてその高校3年から、明らかに気分障害的な傾向が見られ始めた。抑うつ状態が始まった。また、希死念慮が初めて生じたのもこの頃だった。
サッカーは弱小クラブチームに移籍するも、チーム内の監督や選手とほとんどうまくいかなかった。
高校3年間は一番辛かった。

高校卒業後、無理やり入れられた予備校も行かず、某区内中学サッカー部外部コーチだけをやり、まあまあ楽しく能動的に動いたし、教育界を18にしてしっかり観れたのは大きな経験だったが、将来に対しては何一つ夢や目標を持てなくなった。そんなとき、村上春樹と、ノルウェイの森に出会い、上下巻繰り返し読みまくった。この世のどうにもならなさを、他人が指摘しているのを始めてみて、自分の諦観や虚しさは自分だけが抱えているわけでは無いことを知った。
受験勉強はおそらく1月もしてない。それでも、底辺の大学に入学した。専攻は心理学。就職するために学部を選ぶ気はなかったから、人の正体に迫りたいと思い、心理学科へ。

ところが、この頃には世から遠い引きこもり気味な生活をしていたため、大学環境がストレスでしょうがなかった。学ぶ気も無いガキが400人規模でいる教室も、基礎演習のゼミも、対人評価を過剰に気にしてしまうということの方が多かった。サッカーは都内のクラブチームまで通ってやったが、心身のキャパが追いつかず、8ヶ月で辞めた。

そして、大学2年でフットサル界へ来た。具合は悪いのに、フットボールは自分がやらなくてはならないものという、強迫観念だけは強く、フットサルへ転向し社会人チームへ。最年少だったが暴言だらけで、心身削って休みがちだった。それでも、抑うつがある中でまあまあ活動には通った。まさかの県1部参入戦でデビュー戦という機会が巡ってきたが、自分のミスで引き分けで昇格ならず。誰にも責められなかったが、自責の念と自己肯定感は“安定して”下降していった。そして、ある出来事をきっかけに、自分が明らかに変わり者であることを認識し始めた。

大学3年で学生相談室へ通い始めた。週に一度、じっくり傾聴してもらった。風景構成法、箱庭、ロールシャッハテスト、自律訓練法なども受けた。一生懸命傾聴し、常に担当セラピストは僕の見方でいてくれたし、鏡になり色々なことを考える時間を与えてくれた。しかし、哲学的な行き詰まりや死生観については、心理療法を通しても、行き詰まりをより強く感じるだけだった。

大学4年後期の10月頃、4年卒業が不可になった。そしてゼミも行かなくなった。そして、5年目から、結果的に6年目9月半まで、休学することとなった。チームでの活動は3ヶ月休んだり戻ったり。安定して活動に参加することはできなかったし、抑うつは悪化していた

休学期間、バイトだけはやろうとしたが、たかがコンビニエンスストアのバイトのバイトすら覚えられないほど心身疲弊していた。圧迫的な店長からの関わりに耐えかね、コンビニですら働けないことに絶望し・・・

この世にいるのをやめることを遂行した。

・・・残念ながら失敗に終わったが。

あの世に行けなかった以上生きざるを得なくなり、3ヶ月ほぼ自宅の布団から出ない生活を送った後、まずやりやすそうなアルバイトを探した。それが現在も6年続けているサッカー個人指導業である。研修が心身ともに死ぬ程辛かったが、筋弛緩法などで震えや不安を少しでも抑え、通り抜けた。指導は比較的好評で、自己肯定感が、少し戻ってきた。そしてその年の11月、競技のフットサル界へ戻ってきた。それから2年間は、強いチームで鍛えることを目的とした移籍も含め、2チームでプレーした。

そして、7年かけて大学を卒業した。
・・・ものの、対人関係において思い出したくも無いような失敗をした。俺はやはり存在してはいけないのではないかと悩んだ。対人関係が苦手だと自覚したのはこの頃である。また希死念慮が高まったが、なんとか耐えた。ただ、自傷は多かった。自己肯定感はたまに上がるが、「上がっているときは幻を見ているだけ」という感覚であった。

大学を出、いよいよ就労を考えならなくてはいけなくなった。

・・・自分に選択肢は少なかった。恐らく、自分がやるべきことも、自分が唯一やれることも、臨床心理学を基にした対人援助職に就くことだった。初めて積極的な理由として、フットサルを休止し、大学院の受験勉強を始めた。これまでの人生で最も能動的に、意欲高く学んだ期間だった。9月以降には、不登校児童のフリースペースでもスタッフをし、競技フットサルに復帰した。そして・・・大学院に合格した。数年前の自分を思い返すと、それは誠には信じられない驚天動地の出来事だった。

がしかし、その入学直前の2月に対人関係における決定的な失敗で自己肯定感が底をつき、希死念慮が一気に高まる。
でも、背水の陣にある自分には、そんな死一歩手前でも、もはや生きるには戦うしかなかったから(そこまでして生きる意味はあるのか?という問いと常に戦っていた)、思い切って入学権利を行使することにした。

入学。恐ろしい数の講義と課題。1年目だけとは言え。よく乗り越えたと思う。実習として、付属相談室の心理士役(ケース実習)で遂にカウンセラーデビューもしてしまった。それにおいて、辛い経験と自責の念にも駆られたが、なんとか、面接のトレーニングに励み、それらを払拭した。

進級、修士2年。病院実習、福祉施設実習、付属相談室実習など、本当に現場デビューしてしまった。・・・誤解を恐れずに言うが、今までで一番楽しい一年だった。フットサルにもほぼシーズン通して取り組めた。良くも悪くもその気になれば17.5kgを3ヶ月で減らせるポテンシャルがあることも勇気付けられた。しかし修士論文は改めて自殺を考えるほど辛かった。誰にもそうは見えてないだろうが。そして、それを、きっかけに?いやそれだけじゃないけど、また、対人関係のトラブルを起こした。

あまりにも対人評価への恐怖と不安が強い。それは対人関係やフットボールを通して、いい加減よく自己覚知した。

今もその対人評価の恐怖と、自分を一人の人間としてみなされていないかのようなとある“仕打ち”の記憶でとても苦しい。

なんとか、人の手を借りまくって、修士論文を書き上げ、そして、卒業が決まった。ついでに、就職まで決まった。順当だった。

だけど、希死念慮はやはり抱えている。臨床心理学を学んだだけでは、必ず生きなければならないとは到底思えないしこの世は不平等と暴力に溢れているから。




・・・でも、多分僕は生きていくのだろう。何となく死なずに惰性で生きていくんだろう。ピッチに立ちシュートをストップし続け、自分や友人の自死の経験を基に、心理臨床に活かせるよう、やっていくだろう。頭が張り裂けそうになるかもしれないが、決して降伏はしない。


こんな事例が、現にある。
こんな事例が、少しでも誰かを勇気付けられたらと、僕は考えている。


何故生きるのか。理由なんてない。死ねないから、フットボールという快楽で苦しさを騙すため。この事例においては、生きる理由をあえて言えば、そうなのだろう。


ADHD気分障害や不安・恐怖を多く抱えるも、何とか臨床活動とフットボールに取り組んでいる成人の事例〜