No Me Arrepiento De Este Amor.

俺達は何故生きている?痛みに耐えるだけのために?

思い出を無価値化すること。

思い出は、人と共にある

対人関係を基盤に、成り立つ、ことが多い

対人関係を維持することに問題を抱えている僕は、

本来美しかった思い出も、苦しみや虚しさの一部と化すことが、多い

友人でも、恋愛対象でも、先輩後輩でも、許容できないことはあろうとも、

全てをまず受容する、それがありのままだから 

勿論許していては苦しいこともあるから、その場面では主張する

しかし、現に起きている相手の感情や行いは、全て背景がある 

だから、否定して自分に負荷や不快感を感じたくないから離れていく、ということをしたくないんだ 

そんな簡単に人と人が離れていけば、それはとっても浅はかで形骸的な人間関係である 

そんなものに囲まれた日々に、生活に、命に果たして価値はあるだろうか?何の意味があると言うのだろうか?

勿論価値は各々が決めることだが、僕自身という一事例においては、そんな浅はかで表層的な生活に、生きる意味を見出せないんだ。

しかし、相手の受容が許容になってしまい、自分のキャパシティを超えると、

主張がクレームや罵詈雑言、醜い言葉として、口頭もしくはオンラインを通じて発されてしまう

特に具合が悪く、苦しい時に人格や自分の背景を否定されたり、利己的でどうしようもない人がいる場合に

自分のキャパシティの中で収められるよう生きるべきで、それが他人の時間や余裕や健全な心を侵害しないやり方だろうし、

自分自身もそれなりにそれによって守られるだろう 

けれども、そんな生に意味はあるのか?

全ての人を愛せない生は生か?

それこそが死している状態ではないか。

そんな死んだ状態なら、

身体的に、脳機能的にも死んだほうがラクだと思うし、迷惑にもならない

だから、


死にたい

気づいたら死んでた、という状況の到来を僕はずっと待っている 

が、そんなものは来ないだろう

となれば、自発的に、

行為を行うしか無いのである