No Me Arrepiento De Este Amor.

俺達は何故生きている?痛みに耐えるだけのために?

生育歴 -思春期②-

昼まで寝ていて、動き出す。

 

日内変動が顕著であり、夜は過活動気味になる。

 

週六日働いているというのに、週にたった一度の早起きを前にした前夜が苦痛である。

 

 

高校に入れたことを喜んだ人間は周囲に多かった。

 

特に両親、偏差値みたいなわかりやすい数値しか信じることのできない人間であったから、おそらく高校受験を成功だと思ったんだろう。まあでも、優秀な奴も土地柄多かったので、本当は早慶や筑駒・学芸世田谷なんかに入って欲しかったんだろうな。色んな意味でたわけ者である。国立中学に所属しながら援助交際したり窃盗を繰り返している奴もいた。まさに教育の敗北、資本主義の不完全さとでも言うべきものを目の当たりにしていた。

入学直後の模試以外は成績不振もいいところだった。高校卒業時は追々試まで追い込まれ、600人中下から3番にまで成績を落とした。ハンパに生活環境に恵まれたガキに溢れたマンモス私立校、生徒の素行は悪い奴が結構いるし、学校は処分することだけで、教育することや子を育てるなんて発想がまるで無い。大人も子供も腐敗に塗れていた。

 

表層的な服装や頭髪の異常と言えるほどの短さの要求と学力以外眼中に無い教職員、健全に見せかけ素行不良の生徒。ツッコミ所が多すぎる。

 

入部したサッカー部では、外部指導者や顧問教員による暴力が見られていた。教育方針もクソも無い圧政のみであった。。一年経たずして退部し、自力でクラブチームへ移籍したが、退部後のサッカー部では、部員による校内の購買で窃盗が起き、部長を含んだ4人が退学処分となった。

 

教職員も暴言に暴力が目につく。そりゃあ戸塚ヨットスクールやヤクザ紛いの引きこもりを引き摺り出すサービス業者程酷くは無いが、教職員に思想も理念も信念も無いのは明らかだった。あいつらはサラリーマンなだけで教育者じゃなかった。申し訳ないが今でも僕は教員を心の底から信頼していない。本当に数名だけ、三十路を過ぎてから尊敬できる方とも出会えたが。

 

ただ学校や親に従っていたら正義も何もなく、考える力すら奪われるー、そう気付き焦ったのは高2の冬だった。今振り返ると、もう僕は精神的に疲弊していたのだろう、色々な圧力に。そして、うんざりしていたのだろう。これ以上やれるイメージが無いと。外向きには強がっていたけれど。

 

それまでは、

 

「なんだかんだ大人は正しいことを言ってくれていて、それに従えない自分が悪い」

 

と本気で思っていた。しかし、いとも簡単にそれも音を立てて崩れ去った。自分の目で物を見て自分の頭で考えなければ人生奪われるし、自分も知らず知らずのうちに誰かを傷つけるロクでも無い奴に成り下がってしまう、そう思った。高校で得た唯一のものは、強烈な自我であった。あとは何も信じられなくなった。

 

クラブチームでも、チーム唯一のGKである僕への風当たりは弱いものでは無い。選手も、監督も(指導者は監督と名乗る楽したがりで過去の英光ばかり語って働きもしない怠惰なおっさん一人だった)決して受容的ではなかったし、チームメイトの素行もまた悪かった。平気で電車内に意図的にゴミを置き去りにしていく(それも隠そうともせずに)、そんな奴らが半分くらいだった。いい加減、安心できる自分の居場所が欲しかった。休息できる時間も。

 

だからこそ、中学時代の同級生でつるんでた4〜6人は、本当に心の救いであった。彼らに自分の目で物を見ることを教えられたようだった。彼らとも、たしかに定期的にくだらない対立はあったが、どこのコミュニティの奴らよりも実直で、正々堂々悩み、模索していた。抽象的で哲学的なテーマを扱えるのはここの人間だけだった。そして、皆ノルウェイの森を読んでいた。今でも誇り高き友人達だと言える。その他の同年代は、目につくところは例外なくヴァカそのものだった。

 

それだけにー。

 

高2の3学期から卒業までは、単位が足りなくならない程度に不登校をしていた(遠足もバックレた)。多分覚えていないだけで他にもバックレている行事その他はあると思う。授業は当然バックれまくっていた。ああ、組体操は、、体育祭の組体操は、、その時間逃亡したなあ。全体主義的空気も感じどうしても避けたいものであった。というかよく体育祭に参加だけでもしたなとすら思う。無思考に、ただあわせたことをやらされる。まさしくこうして集団極性化は起きるのか、と。

 

アルバイトもした。その経験から、病的に人から自分の動作による働きぶりを評価されることに恐怖を感じることに気づき始めた。同じアルバイトを一年以上続けたのに、一向に慣れない。心拍数が高い。そそっかしくミスが多い。判断能力は落ち、心臓が浮き上がるような感覚に陥る。おそらく発達傾向にあわせ、対人評価に関する不安が高まったのだろう。そうして僕は、アルバイトをすることが苦手になっていった。

 

思想や理念云々と関係なく、自分は働くことができない人種なのかもしれない、もしかしたら死ぬしか無いのかもしれない、と本気で深刻さに向き合うことになった。

 

両親は相変わらず僕がどういう人物であるかを理解できるわけもなく、度々衝突していた。ガラスは何枚も割り、その度に僕は腕や足から地面に池ができるほどの出血していた。警察も三度くらい家まで来た。

 

そして、不登校を続けていたある日、母親が狂った。学校から帰宅した僕に対し、「(僕が)まだ幼稚園に行ってるんだよ、(僕は)まだ帰ってきてないんだよ」と意味不明なことを言い出した。現実を受け入れられなかったのだろう。その件の後家族会議で父親から母親のために登校を懇願された。そして仕方なく高校に通い、辛うじて卒業はすることにした。通信制に転校すれば、もっと負担はなかったのに。高校に屈した。

 

高校を卒業したことは、未だに人生の汚点である。

 

兎に角、世の中ハッタリばっかりだし高学歴でも家柄が“良い”とされていても、人格的に卑劣下劣な奴は多いことを知った。教職員に本当の教育者なんて殆ど居ないこともわかった。カネに恵まれてる奴らの半分くらいはぶっ殺されちまえとすら思うようにもなった。世の中で拡散戦争でも起きて人間なんか絶滅してしまえとすら思った。

 

誰もモデルになるような人生や価値観を持っておらず、自分は、この先生きるとすれば、何もかも全てを自分で考えなければならないのか、ということに不安も感じた。いくら盲目的に指示や常識に従うよりはマシとはいえ。

 

そしてそれ以上に生きていてもロクでも無いな、死んでしまえたら…

そのような発想が初めて、頭に生まれたのである。

 

高校卒業が決まり、先ず行ったことは、自らの意思で精神科を受診することだった。それを近隣の方の力も借りてあとから母親に伝えた。

 

「そんなとこは気狂いがいくところだ。将来に響いたって知らないぞ」

 

そういう言葉しかかけられない母親だったのだ。なんと虚しいことか。僕も親不孝ものではあるが、この言葉は、本当に、ショッキングなものだった。

 

ノルウェイの森の作中の表現を借りれば、

思春期後半に「野井戸」に落ちた僕であった。

 

進学先も無く、無理やり入塾させられた予備校も興味のあった政治経済以外の全ての授業の一切を、受講拒否し、公立中サッカー部の外部指導員と某ファストファッション店で3ヶ月だけアルバイトをして、あとはよくつるんでいる同級生と週末にボールを蹴り、メシに行き、たまに夜中まで出歩き、夜中にも工場地帯の広場でボールを蹴っていた。夢も希望も無いまま、一年間過ごしていた。ただただ、虚しかった。

 

そうして、UDAという親友に、

村上春樹ノルウェイの森を紹介されたのである。

 

http://ultraspsychogoleiroprideof044.hatenablog.com/entry/2018/06/11/144859

 

別のエントリーに掲載しているが

通っていたFラン大学の学部(合わせて7年も在籍した)の卒業する最後の年に、学内図書館が主催する読書感想コンクールがあり、課題図書に本書が挙げられていた。それを知り、スマートフォンフリック入力で、思いつくままに感想を書き殴ってエントリーしたら、優秀賞を取って表彰された。

7年も居座るバカ学生を表彰することになるとは思わなかっただろう、大学も、あの担当だったクソタレ教員も。

 

兎に角この作品は、浅はかで興行収入しか脳に無いクソエンタメ作品のように、メシアが都合よく表れることはないこと、不条理でどうしようもなく、そして腐敗した社会に無気力である青年をリアリズムに基づきよく書いていた。個人にできることに限界がある様も、人は人を傷つけてしまわざるを得ないことも、そして時に人は結構自殺することも、自殺は言うほど悪くないことも、示唆していた。

 

ー今でも忘れない。自由ヶ丘の喫茶店で初めて読んだ本作、下巻を3時間くらい一気に読み終え、その後店から出たら、視界がモノトーンになっていた。自分の身体だけに色が付いていて、自分は社会から脱落したんだ、もう二度と同じ価値観で生きることはできないんだと、悟った。

 

あれから15年以上経過した今でさえ、それをやはりその通りであると再認識させられている。あの時学びとった非情は、余りにも大きなものだった。未だに打ちのめされている。

 

あぁ、やっぱり、

あの頃に、僕は、

「野井戸」

に落ちたんだ、

と。