20歳の誕生日前日、親友が自殺企図をした。
次の日、私の20歳の誕生日当日、親友は錯乱した状態で居た。その一月前には父親を亡くして、遺体を放置していたそうである。
親友は兎に角錯乱しており、目が離せない状況で、一緒に、過ごすことになった。幻聴を訴え、マンションの屋上に柵を乗り越えて行き端で足をブラブラしていたり、ほんのひと時風呂に入れたら腕を剃刀で切り、増毛サービスに電話するわ、かつて付き合っていた女子に連絡しセックスしたいと言い出すわで…大変だった。
でも無論見放すことなんて出来なかったし、その一方無力感に苛まれた。悲しかった、虚しかった。
本来の消えてしまった様でなんとも言えなかった。
いっそ彼は死んだ方が楽になるのではないかと思った。まあその2年後に既遂したのだが。
そうやって、、急性期を逃れた後何度か会っていたが、死んだのである。
私の誕生日にかつての彼女を渇望する様子、
増毛サービスに電話にする様子、
死にたがる様子は、
他人事には思えなかった。
その錯乱は、自分がもしかしたらそれなりに再現していくのではないかと思った。そしてその通りになった。
その通りになり、特定の人ではないものの恋人に理解されて抱かれたくなった。ここでいう抱かれたいというのは、性行為を最後まで済ますことではなく、文字通り抱かれたいという意味である。
彼の急性期が落ち着いてから色んなことを考えた。それまでは、愛に満たされることなんて基準にすらなかったのに、彼の渇望を物真似するかのように、理解され愛されたくなった。
私は、彼の後を追うように、彼の残りの半生を一部生き始めた。
その後は様々なヒューマンエラーを起こした。その一つ一つが、FlashBackして、今の自分にのしかかってくる。苦しい。
FlashBackだらけだ、何もかも自責している、すると、苦しくなる、頭の中が錯乱する
でも、それに気づけた。
俺達は何故生きている?
ただ痛みに耐えるだけのために?