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No Me Arrepiento De Este Amor.

俺達は何故生きている?痛みに耐えるだけのために?

楽しさや悦びをできることならば、

自分だけで完結させたくない。

 

人々に迷惑のならない範囲で、どんどん誘いたい。共有したい。援助したい。

 

心理臨床なら、色々学んで、スゲーとか、これメッチャ深い〜とか、だけじゃなく、ニーズのある人々の役に立てること。

 

フットボールなら、プレーヤー・サポーターを拡大し、今いる人だけでなく、より多くのひとで、喜怒哀楽を楽しめる魅力あるコンテンツにすること。たとえ身近なところからでも。

 

自分だけが楽しかった、幸せな時間だった、だけじゃいけない。このポジションにいる俺については、そう思う。


ノブリス・オブリージュ。

言語化・論理的思考

自分の言葉で思考を語る力が弱まっている。それは適応過程でもあるけど、危機感を持つ。論理的思考が以前より疎かになっている。

語ること、開示することはリスクを孕んでいる。印象形成や評価に必ずしもメリットがある訳じゃない。でも、苦しまない範囲で論理的に考えないと、意味や意義が無い。生きることが目的の生活は(僕の場合)虚しい。

論理的思考が低下して、必要以上に諦めて、能力が落ちていく。
だから、語らないと。

でも、“丁度良く”が難しい。多分生まれつき難しい。いや、生まれつき難しいとしても、生まれつき難しいものだと思い過ぎることで可能性を制限していることも事実あるだろうけど。

適応は手段であって目的じゃない。ナアナアで生きて行くことを俺は求めていない。論理的思考を働かせ、意味の世界に生きる。
そのためには、一辺倒の理念やスキーマ、ポリシーではなく、常に認知→判断→行動をしていなければならない。
自我を維持していなければならない。

丁度良く、それが最大のテーマ、課題。ケーススタディ
その程度のことが、最大のテーマ。
全く、情けない。
承認欲求がどうだこうだ自己実現がどうだ言われるが、誰かのために存在意義のある自分で居なければ、居続けなければ、わざわざこんなくだらない世界に苦労して居る必要は無い。


今夜は久しぶりに長文を紡いだけども、やっぱり上手く語れない。言語化能力の低下には、落ち込むばかりである。

思い出を無価値化すること。

思い出は、人と共にある

対人関係を基盤に、成り立つ、ことが多い

対人関係を維持することに問題を抱えている僕は、

本来美しかった思い出も、苦しみや虚しさの一部と化すことが、多い

友人でも、恋愛対象でも、先輩後輩でも、許容できないことはあろうとも、

全てをまず受容する、それがありのままだから 

勿論許していては苦しいこともあるから、その場面では主張する

しかし、現に起きている相手の感情や行いは、全て背景がある 

だから、否定して自分に負荷や不快感を感じたくないから離れていく、ということをしたくないんだ 

そんな簡単に人と人が離れていけば、それはとっても浅はかで形骸的な人間関係である 

そんなものに囲まれた日々に、生活に、命に果たして価値はあるだろうか?何の意味があると言うのだろうか?

勿論価値は各々が決めることだが、僕自身という一事例においては、そんな浅はかで表層的な生活に、生きる意味を見出せないんだ。

しかし、相手の受容が許容になってしまい、自分のキャパシティを超えると、

主張がクレームや罵詈雑言、醜い言葉として、口頭もしくはオンラインを通じて発されてしまう

特に具合が悪く、苦しい時に人格や自分の背景を否定されたり、利己的でどうしようもない人がいる場合に

自分のキャパシティの中で収められるよう生きるべきで、それが他人の時間や余裕や健全な心を侵害しないやり方だろうし、

自分自身もそれなりにそれによって守られるだろう 

けれども、そんな生に意味はあるのか?

全ての人を愛せない生は生か?

それこそが死している状態ではないか。

そんな死んだ状態なら、

身体的に、脳機能的にも死んだほうがラクだと思うし、迷惑にもならない

だから、


死にたい

気づいたら死んでた、という状況の到来を僕はずっと待っている 

が、そんなものは来ないだろう

となれば、自発的に、

行為を行うしか無いのである




注意欠如・多動性・衝動性を抱えて生まれ社会で生きてきたこと。

未就学児の頃から、とにかく走り回る探索行動が豊かな子であり、

学校教育を受け始めると、その年に誕生したJリーグの影響から、サッカーにのめり込んだが、チームに所属した訳でもなく、ボールを足で扱うようなことは上手くない。それどころか、キャラなのだろうか。いつのまに、50m走は得意だったにも関わらず、クラスの序列、今でいう「スクールカースト」に準ずるものがあるとすれば、その中では、クラスで下に居た。

某有名補習塾にも通い、学校よりも先取りした学習を行い、数学とりわけ掛け算の得意さとスピードは学年トップ。にもかかわらず、クラスメイトや教師の印象は悪いものだったと思う。サッカーは一向に上手くいかなかったが、何故かシュートを止めるのだけは皆から褒められた。ダイビングやローリングが何故か全く怖くなく、思い切ってやれたから、そこだけは、畏敬の念を抱かれた。にしても、おそらく、嫌われていたと言い切って差し支えない。

転勤族の息子だったため、4年に進級するタイミングで転校した。地方に東京から来たこと、いきなり学級委員をやったことなどから、目立ってしまった。何故かクラスメイトや同学年生徒からはバカにされていた。
その頃、両親はその地での進学に危機感を持ち、所謂中学受験を前提とした塾に行き始めた。週3塾、その内1回は、練習から持参したおにぎりを食べ、塾に行った。サッカーは上達したものの、進学塾の内容にはついていけなかった。ついていけないから嫌だった、というより、誰も話のできる人が1年以上いなかったことが苦しかった。何故自分だけ塾通いをしているのか、理由が分からなかった。

3度目の転校は上手くいった。そして5,6年を過ごしたこの2年間で、フットボールとゴールキーピングという役割が完全にアイデンティティとなった。これ以外のことで仕事なんてしたくないという確固たる思いが出来上がり、自力で申し込みや支払などをして名門ジュニアユースクラブのセレクションを親の保護なく3クラブ単独で受けに行った。プレースキックの飛距離の無い身長149cmGKだった僕は、その世界では必要とされなかったが。

中学進学。GKとしての能力を否定されたようでショックな気持ちを小6の秋冬から抱え続けていた。父親からは、部活選択の場面で「サッカー禁止令」が出た。今でも理解できないのだけれども。しかし、それを押し退けサッカー部へ。でも、そんな部活は上下関係と暴力に溢れており、教育者や顧問が選手を見る時間はなかった。これで、早期に形成されたアイデンティティが簡単に壊された。サッカーが3年間
満足にできず、悔しく虚しかった。しかし、なんとか、無理やり進学塾に入塾させられ、なんとか高校は進学校に入学できたが、この頃から勉強に対してモチベーションを保てなかった。

そして、高校時代。最も苦しかった。一学年600人規模のマンモス私校。保守的な伝統感があり、行きすぎた清廉潔白と過重な勉強、テストや模試の結果ばかり要求された。

部活動でサッカーを続けたが、この頃は中学で全く実力を伸ばすような練習ができなかったので、プロは諦めたいた。虚しかった。なのに勉強だけやれという保護者や教師陣の圧力はとても苦しかった。そんなとき、途中退部したサッカー部員の窃盗事件が起き、その実行犯・人が退学させられた。そいつらに僕は殆ど興味も関心もなかったが、退学させるということが実行されていることに対して、疑問を感じた。自分の学校の生徒がそのような行為をしてしまったのに、辞めさせて教育する義務を負わないことが納得いかなかった。3年で300万も取る癖に、何が進学校だ、何が偏差値64だ、と強い疑問を抱いた。
この頃から、大人は信じてはいけないのだと悟った。登校ストライキ(不登校と言われるだろうが僕にはストライキのがしっくり来る)を始めたが校長の下僕の若手教員と学年主任に説得や圧迫をされ、母が、ショックを犯し突然退行したため、仕方なく、父に懇願されて、しかたなく、学校に戻った。この学校に「卒業させてやったんだぞ」というような恩を売ってしまったようで、今でも後悔の念が疼くことがある。そしてその高校3年から、明らかに気分障害的な傾向が見られ始めた。抑うつ状態が始まった。また、希死念慮が初めて生じたのもこの頃だった。
サッカーは弱小クラブチームに移籍するも、チーム内の監督や選手とほとんどうまくいかなかった。
高校3年間は一番辛かった。

高校卒業後、無理やり入れられた予備校も行かず、某区内中学サッカー部外部コーチだけをやり、まあまあ楽しく能動的に動いたし、教育界を18にしてしっかり観れたのは大きな経験だったが、将来に対しては何一つ夢や目標を持てなくなった。そんなとき、村上春樹と、ノルウェイの森に出会い、上下巻繰り返し読みまくった。この世のどうにもならなさを、他人が指摘しているのを始めてみて、自分の諦観や虚しさは自分だけが抱えているわけでは無いことを知った。
受験勉強はおそらく1月もしてない。それでも、底辺の大学に入学した。専攻は心理学。就職するために学部を選ぶ気はなかったから、人の正体に迫りたいと思い、心理学科へ。

ところが、この頃には世から遠い引きこもり気味な生活をしていたため、大学環境がストレスでしょうがなかった。学ぶ気も無いガキが400人規模でいる教室も、基礎演習のゼミも、対人評価を過剰に気にしてしまうということの方が多かった。サッカーは都内のクラブチームまで通ってやったが、心身のキャパが追いつかず、8ヶ月で辞めた。

そして、大学2年でフットサル界へ来た。具合は悪いのに、フットボールは自分がやらなくてはならないものという、強迫観念だけは強く、フットサルへ転向し社会人チームへ。最年少だったが暴言だらけで、心身削って休みがちだった。それでも、抑うつがある中でまあまあ活動には通った。まさかの県1部参入戦でデビュー戦という機会が巡ってきたが、自分のミスで引き分けで昇格ならず。誰にも責められなかったが、自責の念と自己肯定感は“安定して”下降していった。そして、ある出来事をきっかけに、自分が明らかに変わり者であることを認識し始めた。

大学3年で学生相談室へ通い始めた。週に一度、じっくり傾聴してもらった。風景構成法、箱庭、ロールシャッハテスト、自律訓練法なども受けた。一生懸命傾聴し、常に担当セラピストは僕の見方でいてくれたし、鏡になり色々なことを考える時間を与えてくれた。しかし、哲学的な行き詰まりや死生観については、心理療法を通しても、行き詰まりをより強く感じるだけだった。

大学4年後期の10月頃、4年卒業が不可になった。そしてゼミも行かなくなった。そして、5年目から、結果的に6年目9月半まで、休学することとなった。チームでの活動は3ヶ月休んだり戻ったり。安定して活動に参加することはできなかったし、抑うつは悪化していた

休学期間、バイトだけはやろうとしたが、たかがコンビニエンスストアのバイトのバイトすら覚えられないほど心身疲弊していた。圧迫的な店長からの関わりに耐えかね、コンビニですら働けないことに絶望し・・・

この世にいるのをやめることを遂行した。

・・・残念ながら失敗に終わったが。

あの世に行けなかった以上生きざるを得なくなり、3ヶ月ほぼ自宅の布団から出ない生活を送った後、まずやりやすそうなアルバイトを探した。それが現在も6年続けているサッカー個人指導業である。研修が心身ともに死ぬ程辛かったが、筋弛緩法などで震えや不安を少しでも抑え、通り抜けた。指導は比較的好評で、自己肯定感が、少し戻ってきた。そしてその年の11月、競技のフットサル界へ戻ってきた。それから2年間は、強いチームで鍛えることを目的とした移籍も含め、2チームでプレーした。

そして、7年かけて大学を卒業した。
・・・ものの、対人関係において思い出したくも無いような失敗をした。俺はやはり存在してはいけないのではないかと悩んだ。対人関係が苦手だと自覚したのはこの頃である。また希死念慮が高まったが、なんとか耐えた。ただ、自傷は多かった。自己肯定感はたまに上がるが、「上がっているときは幻を見ているだけ」という感覚であった。

大学を出、いよいよ就労を考えならなくてはいけなくなった。

・・・自分に選択肢は少なかった。恐らく、自分がやるべきことも、自分が唯一やれることも、臨床心理学を基にした対人援助職に就くことだった。初めて積極的な理由として、フットサルを休止し、大学院の受験勉強を始めた。これまでの人生で最も能動的に、意欲高く学んだ期間だった。9月以降には、不登校児童のフリースペースでもスタッフをし、競技フットサルに復帰した。そして・・・大学院に合格した。数年前の自分を思い返すと、それは誠には信じられない驚天動地の出来事だった。

がしかし、その入学直前の2月に対人関係における決定的な失敗で自己肯定感が底をつき、希死念慮が一気に高まる。
でも、背水の陣にある自分には、そんな死一歩手前でも、もはや生きるには戦うしかなかったから(そこまでして生きる意味はあるのか?という問いと常に戦っていた)、思い切って入学権利を行使することにした。

入学。恐ろしい数の講義と課題。1年目だけとは言え。よく乗り越えたと思う。実習として、付属相談室の心理士役(ケース実習)で遂にカウンセラーデビューもしてしまった。それにおいて、辛い経験と自責の念にも駆られたが、なんとか、面接のトレーニングに励み、それらを払拭した。

進級、修士2年。病院実習、福祉施設実習、付属相談室実習など、本当に現場デビューしてしまった。・・・誤解を恐れずに言うが、今までで一番楽しい一年だった。フットサルにもほぼシーズン通して取り組めた。良くも悪くもその気になれば17.5kgを3ヶ月で減らせるポテンシャルがあることも勇気付けられた。しかし修士論文は改めて自殺を考えるほど辛かった。誰にもそうは見えてないだろうが。そして、それを、きっかけに?いやそれだけじゃないけど、また、対人関係のトラブルを起こした。

あまりにも対人評価への恐怖と不安が強い。それは対人関係やフットボールを通して、いい加減よく自己覚知した。

今もその対人評価の恐怖と、自分を一人の人間としてみなされていないかのようなとある“仕打ち”の記憶でとても苦しい。

なんとか、人の手を借りまくって、修士論文を書き上げ、そして、卒業が決まった。ついでに、就職まで決まった。順当だった。

だけど、希死念慮はやはり抱えている。臨床心理学を学んだだけでは、必ず生きなければならないとは到底思えないしこの世は不平等と暴力に溢れているから。




・・・でも、多分僕は生きていくのだろう。何となく死なずに惰性で生きていくんだろう。ピッチに立ちシュートをストップし続け、自分や友人の自死の経験を基に、心理臨床に活かせるよう、やっていくだろう。頭が張り裂けそうになるかもしれないが、決して降伏はしない。


こんな事例が、現にある。
こんな事例が、少しでも誰かを勇気付けられたらと、僕は考えている。


何故生きるのか。理由なんてない。死ねないから、フットボールという快楽で苦しさを騙すため。この事例においては、生きる理由をあえて言えば、そうなのだろう。


ADHD気分障害や不安・恐怖を多く抱えるも、何とか臨床活動とフットボールに取り組んでいる成人の事例〜

ホームやベースを、失うこと。所属と愛の欲求。

ついに大学院修士課程を退学せず、修了することが確定した。

過去の記事を読んでいただければわかるが、これを成し遂げるのは、半分は、奇跡でしょう。その奇跡には、僕を支えてくれる友人や先輩や様々な各所の同士やフットボーラーの皆さんのお陰が含まれています。半分は、私の持つ、この職業や使命への愛と意志と運、によって成し遂げられたものだと思います。

遂に、ついに、本当に所属する学校がなくなってしまった。今でも孤独感は感じるが、同時に教育機関に護られている感覚もある。しかし、恐らく最後となる計21年もの小学校から大学院修士までの学校生活が終焉するのは、全く違う世界へ踏み出さざるを得ないということだろう。

喜ぶべきことだが、恐怖が大きく上回る。通用しない可能性をそれなりにリアルに想定でき、苦しい。しかも、それを考えなくとも、僕は、
対人関係トラブルを主なきっかけとし、今、抑うつ不安被害妄想エネルギー低下睡眠障害が止まらない。酒の量も増えた。過食で体重もついにあのダイエットで減らした分をほぼプラマイゼロまで戻してしまった、1年間をかけて。

今後の所属が決まってない今、今こそ、人生を終わりにしようか、と思ったりする。比較的都合が良い。

どうしようか。

自死を否定すべき理由を見出せない。

「NO SURRENDER.」も、
「Hasta La Victoria Siempre.」も、
「Keep Calm and Carry on.」も、
奮い立たせる言葉であって、言い聞かせるように繰り返したが、それらの力も、万能では無い。腑抜けて聞こえることもある。

希死念慮についても専門に学ぶ臨床心理学を修了しながら、それが5年、多少増減あれど、全く無くならないのは、やはり重症なのだろう。


アーレフやオウムみたいに、この世界を全て壊してしまえば良い、とは考えないが、大した苦しみもなくサクッと、全面核戦争?なんかで全人類自分を含めて確実に殺してくれるなら、是非お願いしたいとすら思う。

決して他人の決定権や人権を奪うことが良いとは思えないことだけは、ちゃんと記しておきますけどね。

兎に角オレは、要は死んで救われたいってことです。


大学院修了、もっと歓喜や感動や感慨深さばかりだと思ってたのに。。
やっぱりオレは、死にたい。

FORZA Umano

ジェンダー観、貧富、ステレオタイプ、恐怖への敗北、そして 
NO SURRENDER.

人間の愚かさと、無駄かもしれないもがきについて、綴られております。文明や技術が発展した約20年後?でも、現代のクソ人間共のことを表す詩があるなんて。


以下、引用文。

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『あたし中卒やからね 
   仕事をもらわれへんのやと書いた
   女の子の手紙の文字は 
   とがりながらふるえている
   ガキのくせにと頬を打たれ 
   少年たちの眼が年をとる
   悔しさを握りしめすぎた 
   こぶしの中 爪が突き      刺さる

   私 本当は目撃したんです 
   昨日電車の駅 階段で
   ころがり落ちた子供と 
   つきとばした女のうす笑い
   私 驚いてしまって 
   助けもせず叫びもしなかった
   ただ恐くて逃げました 私の敵は 私です

   闘う君の唄を
   闘わない奴等が笑うだろう
   冷たい水の中を
   ふるえながらのぼってゆけ

   暗い水の流れに打たれながら 魚
   たちのぼってゆく
   光ってるのは傷ついて
   はがれかけた鱗が揺れるから
   いっそ水の流れに身を任せ 
   流れ落ちてしまえば楽なのにね
   やせこけて そんなにやせこけて
   魚たちのぼってゆく

   勝つか負けるかそれはわからない   
   それでもとにかく闘いの
   出場通知を抱きしめて 
   あいつは海になりました

   闘う君の唄を
   闘わない奴等が笑うだろう
   冷たい水の中を
   ふるえながらのぼってゆけ

   薄情もんが田舎の町に
   あと足で砂ばかけるって言われてさ
   出てくなら
   おまえの身内も住めんようにしちゃる
   って言われてさ
   
   うっかり燃やしたことにして
   やっぱり燃やせんかったこの切符
   あんたに送るけん持っとってよ 
   滲んだ文字 東京ゆき

    闘う君の唄を
    闘わない奴等が笑うだろう
    冷たい水の中を
    ふるえながらのぼってゆけ

   あたし男だったらよかったわ 
   力ずくで男の思うままに
   ならずにすんだかもしれないだけ 
   あたし男に   生まれればよかったわ

   ああ 小魚たちの群れきらきらと 
   海の中の国境を越えてゆく
   諦めという名の鎖を 
   身をよじってほどいてゆく

    闘う君の唄を
    闘わない奴等が笑うだろう
    冷たい水の中を
    ふるえながらのぼってゆけ』

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もう武器は無い

誰か、死なせてくれ。

もう、手は出し尽くした。

あまりに辛い。症状自体も辛いが、人の迷惑負担になるのもとても辛い。

もう頑張ったんだ。

死なせてくれ。

ショックなのは一瞬、ちょっと経てばオレのことなんて忘れるから、オレに安息を、どうか。

戦い疲れ、動機付けが無い。