No Me Arrepiento De Este Amor.

俺達は何故生きている?痛みに耐えるだけのために?

生育歴 -乳幼児期-

意味への問い、何故生きているのか

 

その辺りの課題に関する蓋が開かれた。

逆に言うと、約5年程度もしくはそれ以上、その蓋を一旦閉じ、リアルを生きることに、成功していた。

 

それは必要な行いだったし、自分が有している元々の潜在的な能力を再確認させてくれた。下らないリアルや能天気で考えることを放棄した奴らと暮らすのは痛みや吐き気を伴ったものではあったものの、ある種の社会性は奪還できたのだろう。

 

社会性?俗の間違いじゃないか?俗に塗れた奴らなんか相手にしていたら自分の身が焼け爛れる、被曝でもしたように。。

 

一方17歳頃から抱えている哲学的な命題は依然変わらず、其処に横たわっている。それに直面しているようで直面していない状態というのは、他者へしつこく関わることでその問いと向き合おうとすることとなり、迷惑を被らせるようだ。己の混乱が他者へ迷惑する、誰も幸せにならず、思わず物理的・心理的に自ら罰したくなるし自死を選ぶことすら発想として生まれる。

 

ーわかり切っていたのに。果たして何度目の失敗であろうか。。。

 

 

生きる意味や問いは、半端に対人で再生するより、哲学者や熟練の心理臨床家や作家と共有するしかなく、その他の時間の孤独というのは、どんだけ強大であろうと、痛み止めもなく、ひたすら痛むしか無いのだ。

 

改めて、正当に独りで痛み、正当に独りで再問答するため、ここで書き記していきたい。

 

 

 

 

とても苦しい。存在していたく無い。安息がほしい。

 

 

 

 

生まれたのは1986年。バブル真っ只中で市民が浮かれている中、中野富士見中学校の自殺した男子生徒の“葬式ごっこ”を、生徒のみならず教員も加わって行なっていたことが明らかになっていた、そういう年らしい。

 

言うまでもなくロクでもない1986年を生きた奴らだし、明るく見せてその実とても暗い世界だった。

 

乳幼児期は、両親にも親族にも愛されていたようだ。確かにトラウマとなるような記憶もないし、母親はいつも笑っていた。活発で、口が達者で、嫌な記憶はほぼないが、何歳だったろうか。両親が車で自分を乗せずに走り去りかけた出来事があって、その時は、泣いた。

 

活発というのは、多動と言い換えることができるかもしれない。

 

ただ、おそらく情緒的な問題は無かったと思う。或いは、表面化していないだけかー。

 

 

この頃に何かの事故で死ねたら良かったのに。

或いは、流産されていれば。