No Me Arrepiento De Este Amor.

俺達は何故生きている?痛みに耐えるだけのために?

生育歴 -児童期-

今日は12時に目が醒めつつ、時間を持て余し、考えることから逃げたいがために午後も寝ていた。

 

身体が動かなくなり、再覚醒するのに時間がかかった。軽い金縛りだったのかな。眠りについたら永眠してくれればいいのに。

 

小学生になってからはよく否定的な言葉をかけられるようになった。同級生が最も多かったし、両親も様々なことで自分を責めた。忘れ物の多さ、書字の雑さ、学校から課された宿題以外に公文式や民間テキストでの勉強での要求、こんなのが普通かとも思っていたが、周りの勉強していない奴らをみて「なんで僕だけ勉強ばかり…」とも思っていた。ただ、より学力の高い児童も同じ集合住宅には居たので、自分が勉強ができるとは思わなかった。テストではそそっかしいミスが散見されるようになっていた。

 

多動の延長からか、鼻を穿ったり、鉛筆を噛んだり、問題行動が見られた。小1の頃は他児よりやや多く担任教諭へアタッチメントが多かったらしく、それで教員から母親は連絡が行ったらしい。

 

基本的には僕は嫌われていた。小3まで居た学校では間違いなく全般的に嫌われており、

この頃「自分は理由はわからないけど駄目で人から嫌われる存在すべきでない駄目な奴だ」という信念が組み込まれた。

 

小4で初めての転校、愛知県へ。

一年4ヶ月のみだが、ここでの混乱、そして同級生からの否定的評価を改めて確認した。ただ同じ轍を踏まぬ為、人を殴ったり蹴ったりするようになった。もちろん無差別では無い。舐めナメてかかってくる奴のみだ。ここでの学習もまた、成人期以降にも影響を及ぼしている…のだな。

 

そんなこんなだが、ただフットボールだけは、

僕を見放さなかった。

 

小3で始めたフットボール。下手でこれも存在を否定される理由の一つであったが、運良くやり始めたゴールキーパーで、ボールや交錯を怖がらず飛び込んでいく姿勢を発揮することで、一目置かれるようになった。ここでフットボールゴールキーパーを務められることがアイデンティティになった。ただ、練習の頻度は週一のみ、塾通いは週3日、しかも塾の内容についていけないわ、何故塾に通わされているのかも理解していないわで、大変だった。いつも忙しい感じもあったし、落ち着かなかった。

 

受験を想定している児童向けの模試で各科目0点に近いものを取り、強烈に両親に怒られた記憶がある、学んだことのない内容だったから仕方なかったのに。

 

親は勉強ばかり、いつも身の回りのことが出来ないことと学業のことで、怒っていた。月に1.5回は大きく怒られていたと思う。長ったらしく、両親共に、見方にならず、とにかく長ったらしく、嫌味を。今思うけど、辛かったなぁ。

 

5年2学期に、神奈川県川崎市へ再び転校。

運良く学区の公立中学校が治安が良かったため、中学受験をしないで済むことになった。小5,6でフットボールで人一倍存在感をみせていたけど、6年の秋にポジションを奪われた。物凄い喪失体験だったし、立ち直れる感じでもなく空虚で、頑張ってプレーしても良い頃のパフォーマンスが発揮できなくなっていた。混乱していた。「どうしよう」と焦燥感に駆られていた。

 

誰かがこの悩みをわかってくれそうには無かったし、うまく説明する言語化能力も未だ携えていなかった。それでも川崎での学校生活は楽しく、同級生からは受け入れられていた。中年となった今でもまだ小学校時の友人と関わりがあるというのは、恐らくその証明であろう。

 

まあ、その後の中学もまた、それなりに苦しかったのだが。。