No Me Arrepiento De Este Amor.

俺達は何故生きている?痛みに耐えるだけのために?

生育歴 -青年期-

数日ぶりに続きを記したい。

 

躁転した感覚がある。主観的に高過ぎることはないが、よく言えばやる気が漲っている、空虚なのに。

 

 

高校に入学して一年半くらいから違和感を抱き出した。世の中の優秀だったり、偉いとされている奴らの7割は空っぽで小賢しく卑怯に生きていることに気付いた。大した論理も持ち合わせていないことに気付いた。両親、両親の友人、教員、学力はまあまあある奴ら、学校を信頼することを止めた。

 

高校2年の1月初旬、急に学校をサボったことが連絡で家庭に伝わってからというものの、両親は頭を抱えていた。ショックもあったようだった。

 

中学の同級生数人と、常に理念や哲学について話題としていた。不平等、不条理、暴力、傲慢、矛盾、暗さ…そういったものを直視した初めての時期であった。

 

高校は卒業した。母親が精神的に明らかにおかしくなり現実検討力も怪しくなってきて、父親に通うことと卒業することを懇願された為である。結果、最高69あった偏差値はガタ落ち、追々試でやっと卒業させてもらった。学年600人中下から3番目。

 

高校を卒業したのはまるで通っていた学校へ貸しを作ったようで、痛感だった。

 

家庭内で暴力的になることが増えたのは、認めざるを得ない事実である。ガラスを蹴破ったり殴り破ったり。警察も家に3度くるい来たか。

 

ロクでもない奴だったし母親の友人からも恐れられていたが、小賢しく生活しているボケよりは余程まともだった。

 

大学進学するモチベーションもなく、何にも身が入らず、鬱々とした気分が日常になった。

高校卒業直後の3月某日が精神科初診日であった。自ら受診した。

 

初診の時を同じくして某ファストブランド店でのアルバイトも開始した。鬱々とした気分もそうであるが、仕事が覚えられない。

それ以前までやっていたファーストフード店のアルバイトでも同じ現象があり、もしかしたら、と思っていたが、確信した。それから約10年が経過した修士課程在学時に勉強の一環で受けた知能検査は、それなりにそのような傾向を裏付けるものであった。

 

公立中学部活動外部指導員もやったが、まあまあ学校に挑戦的であったかもしれない。学校現場を見ることができたのは収穫であった。

 

浪人中の一年は、非常に半生の中で大きな意味を持つ一年であった。抽象的な思考はこの時に定着した。予備校には入れさせられたが通わない意思を示し徹底抗戦。ただし政治経済の講義が受験勉強という意味合いではないところで強くはまり、それだけは一生懸命受講していた。

 

生活リズムはあってないものになった。

初めて睡眠導入剤を服用した。マイスリーであった。確かカウンセリングも精神科で受けたが…理由らしい理由もなく止めてしまっていた。

 

村上春樹ノルウェイの森を手に取ったのもこの頃だった。読後景色が全て白黒になり自分にだけ色がついている経験…世界から浮いてしまった経験は今も忘れもしない。自由ヶ丘の街でだった。

 

大学には合格したところが1校どけあった。Fランク。キャンパスの場所すら調べていなかったが、この時学科が心理学科であったのは、やはり今の自分を規定するのに大きく影響した。

 

浪人一年が後の大学にも勝手に殆ど通わず、病んでいった。独立、というか社会から孤立していった。そしてハタチの誕生日に親友が自殺企図したー。

 

 

記すべき内容が書いても書いても減らない。

 

やはり、どう考えても、自分がまともではないことに改めて直面する。

 

また明日以降、続きを記したい。

 

 

意味への問い。

 

自分が世界を問うのではない、世界が自分を問うている。

 

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