以下は筆者が大学学部生頃に書いた読書感想文です。
作品名は「Tokio Blues」
日本人は「ノルウェイの森」として広く知られている作品です。
今一度思い立って読み返したことの備忘録として、本ブログに改めて掲載し、様々な方々に読んで頂きたいと思います。
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私が初めてこの作品を読んだのは、2005年秋。もう7年も前のことである。現在私は26歳。この26年間、様々な出版物を読んできた。
長めの学生生活の中では特に、様々な物語や文章や自己啓発に触れてきたが、この作品程何度も読み返した書物は無い。未だに、学ぶ。未だに、再確認させられる。
もしかしたら多くの人々は、この作品にフィクショナルな印象を持つのかもしれない。しかし私は、この作品の持つリアリティにこそ魅かれた。何にリアリティを感じるかと言えばそれは、世の中の不完全さや不平等さや虚しさを、まやかしの幻想をみせたり、 救世主を登場させごまかすことなく、明確に示しているところである。
基本的にこの社会で人間はなす術無いということ。大した救いも無いということ。強大な痛みと引き換えに得た学びも、死の前には役立たない。個々人にある差異なんて元々紙一重で、本来的には誰も偉くないし悪くもない。
しかしそれでも、主人公は生きていく。健康で粋な生活、少し気取ったカッコイイ生活により、己を維持する、ブレないように。そして周囲をサポートするために。
作品内の世界と同じように、現実も自己効力が働かない場面は本当に多い、決してゼロでは無いとは言え。
大切な人々は次々にあの世へ旅立って行く。確定要素は何も無い。しかしそれでも、主人公だけは生きていく。「不覚にも愛する人を裏切ってしまって」でも。
そんな主人公に私は、他の何よりも実直で正直で、人間の本来的な生の欲求の肯定を感じさせられる。そしてまた、死ぬという選択も同時に、何も悪いことでは無いのだ。死ぬという生き方だってある。苦しませながら生かすことこそ最も暴力的である、と。勿論、仮に万人が幸せに生きられれば、それこそ究極である。しかしそうはいかないのが、この世界なのだ。悲しいが、誰もが幸せになる世の中では無い。
本作品は、心理学的であり社会学的であり哲学的だ。対策を取ることが非常に難しい、世の中の沢山の歪み。そこをどう捉えるか。どう付き合うか。逃げるのか、目を背けるか。しかるべき距離を置くとはどういうことか。私が感じるこの作品のテーマは、まさにここにある。
安い言葉を並べられるより、私はこの作品中で表現される世間や社会の紛れもないろくでもないリアリティの明確な認知と、それに気づきながらもそんな世界で士気高く生きるワタナベ君に、エンパワメントされる。
常に効率的な行動を取り変化し続け言い訳も虚飾もしない永沢さんに、悩んだ挙句これが最善の選択であると判断し、死を選んだ直子とハツミさんに、周囲の視線や評価に負けず立ち上がり戦うレイコさんに、活発で直感的で感情表現豊かな緑に、多様な心やコンディションを肯定してもらう。
世を見つめ続け、若い世代をまるでカウンセラーのように受容し、静かな激励を与えてくれる村上春樹に、僕は今も支え続けられている。きっとこれからも、死ぬまで。